女性外来の診察室から

第91回 『時代はゲノム』の風

産婦人科医として40年以上も時間が経過し、数年後には卒後半世紀が訪れる。思えば、この間医療はずいぶん変わった。大学の産科病棟の回診ではけん玉のような形の木製のトラウベ聴診器で胎児の心拍数を数えるのが下っ端医師の仕事だった。胎児の大きさや胎位は触診し経腟分娩できるかどうかも判断した。関連病院の出張先で、巨大な超音波断層機器に小さな画像モニター画面のついた装置で児頭径を測るのが最先端医療だった。婦人科病棟の半分は子宮頸がんと絨毛がんの患者さんで埋まっていた記憶がある。今、子宮頸がんは早期発見治療され、HPVウィルスが原因であることが解明され、ワクチン接種で発がん予防が可能な時代になった。リンパ管造影検査という26G翼状針を足の親指の付け根のリンパ管に刺入し、注入された造影剤が腫大したリンパ節に集積し転移を診断する検査もあった。並べられたベッドに次から次と刺入していくのだが、失敗するとまた中枢側の新たなリンパ管でやり直しであり、患者も医師も過酷な検査だった。今、検査はAI搭載機器、手術はロボット支援技術、悪性腫瘍の薬物治療は抗がん剤から分子標的薬にと、医療は加速度的に進歩している。
私の臨床フィールドの一つである生殖医療の臨床現場で着床前診断が導入される時代になったため、2014年はじめて人類遺伝学会に参加した。学会展示場では海外のゲノム検査会社が並んでおり、世界のゲノム検査の趨勢を垣間見たが、国内ではまだ遺伝子検査を施行した症例報告程度であった。しかし現在、男性の3人に2人、女性の2人に1人といわれる生涯悪性腫瘍罹患率の上昇を受けて、治療奏功率の高い治療を選択する必要性が出てきた。悪性腫瘍の治療選択肢に分子標的薬が加わり、ゲノム検査の結果によって対応するゲノム医療を選べる時代になり、ゲノム検査の需要は急激に広がっている。5年、10生存率は大幅に上昇し、診療ガイドラインに「ゲノム」の文字が加わるようになった。
その頃、子どもが欲しい30代の若い女性が2人受診した。二人とも初期の子宮体がんで根治療法を勧めたが、簡単に納得を得られなかった。Second opinionで紹介した大学でも同様方針で、当院で治療を行うことになった。1人は根治手術、もう1人は「命をかけて」強い自己決定による高用量黄体ホルモン療法を行いながら体外受精で妊娠成功した。出産後も厳重に検査フォロー中だが、幸い異常細胞の出現は見ていない。月経のある30代に子宮体癌が発生する現実と、片や根治手術、他方は妊娠出産した女性の人生の大きな差に直面し、がん生殖医療に本気で取り組みたいと思った。
臨床遺伝専門医の資格取得を目指し、悪性腫瘍と遺伝の勉強を開始した。母校の札幌医大、遺伝学講座・櫻井教授にお願いし、遺伝外来の陪席をさせてもらうことになり、多くの症例に遭遇し考える日々が始まった。遺伝外来にはこれまで経験のない多発性内分泌腫瘍や先天性プロテインS欠損症により発症した若年脳梗塞例、Marfan症候群などのほか、遺伝性乳癌卵巣癌症候群(HBOC)、Lynch症候群などの悪性腫瘍術後の紹介患者が多数来診する。
次世代に遺伝子変異が受け継がれる生殖細胞系の遺伝子変異と、悪性腫瘍細胞の体細胞系の遺伝子変異を分けて考えなければならない。婦人科では卵巣癌や子宮体癌術後組織でゲノム検査を行い、BRCA1,2はじめ原因遺伝子変異や相同染色体修復遺伝子変異などを検索し奏功治療を選択するが、さらに次世代や同胞家族の遺伝性腫瘍の有無を知ることにより家族の健康を守るために丁寧な情報提供とカウンセリングが必要となる。遺伝外来では家系図を追う必要があるため、クライエントの成育歴や家族、親族との関係性に触れる場面が必然であり、Narrative medicineの現場となる。
一方、遺伝性疾患に関して海外の発癌率に比べ日本の発癌率が著明に低いデータを見ると、ゲノム検査の広がりの遅れによる疾患精査が不充分である現実も気になってきた。女性外来は、遺伝子異常の可能性はないかという視点も加えた幅広い知識で疾患の可能性を発見し、女性医師による丁寧なフォロー体制で患者の健康を守るシステムを構築できる恰好な外来ではないかと、あらためて思った。

カレスサッポロ時計台記念病院 
藤井 美穂

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