女性外来の診察室から

No.67 山口大学医学部附属病院「女性診療外来」閉科のご報告

山口大学名誉教授 松田昌子先生からのご報告です。

 

ピンクのバラ(感謝)

 

武漢で新型コロナウイルス出現と聞いたのは1月のいつだったか、まだ1年も経たないのに長く遠くに感じられます。予測された最悪に近いシナリオが世界で現実となっていく中で、17年間にわたって診療を続けてきた当院の女性外来の扉を閉じることが今年2月に決まり、私は、患者さんへの連絡、サマリー作成や紹介先への診療情報提供書の準備などに忙殺されて三月末の閉科の日を迎えました。

 

女性外来開設にあたっては、天野恵子先生はじめNAHWの先生方にも、長きにわたってアドバイスや励ましをいただき感謝しています。この機会に、閉科に至った経緯をご報告し、心からお礼を申し上げたいと思っています。

 

【突然訪れた閉科の時】

 

 当院「女性診療外来」は7つの専門科から女性医師が出務する寄り合い所帯ではありましたが、私が主任を務めた10年間は、7~10名の女性医師と6~7名のコメディカル・スタッフと、多科・多職種連携で運営してきました。しかし、10年が過ぎた時、私が保健学科を定年退職し、女性外来では非常勤医師として週1日診療のみとなってからは、他の医師も転勤や退職で減り、最近2年前は婦人科と内科のみで運営していました。大学病院の宿命で、医師の在籍期間が短く、特に女性医師は研修医や大学院生は多いものの、専門領域での経験を積んだ頃には、学外に出ていく人が多く、女性外来を背負っていける人は多くはありませんでした。私は、女性外来の専任医師が配置され、運営が軌道に乗るまでは手伝おうという気持ちで勤務していたのですが、今年2月に、附属病院の診療は70歳までという大学の規則があることを事務担当者から知らされ、“松田がいない中での継続は難しい”という病院長の判断で、「女性診療外来」は17年の幕を閉じることが決まりました。延べ受診者数 26,191名、新患数 2,892名でした。

 

【山口大学医学部附属病院「女性診療外来」のあゆみ】

 

「女性診療外来」は、2003年3月、国立大学附属病院では初めてとなる全科協力体制の下に、総合診療部の中に開設されました。その1年前に、当時、副病院長であった松﨑益徳先生が、長年の友人である天野恵子先生の「性差医療を実践する女性外来」に共鳴し、当時の沖田病院長はじめ病院の首脳陣を説得し、女性外来開設が決まったのです。当時、保健学科の教員であった私は、そのような病院の計画は知りませんでしたが、自分自身の研究活動の一環として、医学科、保健学科の教員有志で、医師、健康運動指導士、助産師、看護師等による「女性のためのヘルス・プロモーション・センター」という組織を作り、地域の中高年女性対象の健康教室や講演会の開催、学長裁量経費をもらって欧米の女性医療機関の視察などを行い、その活動を臨床現場で実践するために婦人科の医師と個人的に話し合いを始めたところでした。附属病院の女性外来開設が決定されたのと「女性のためのヘルス・プロモーション・センター」の活動とがちょうどつながり、私も開設準備メンバーに加わることになりました。天野先生を紹介されて女性医療の教育セミナーなどに参加できるようになったのもこの頃で、自分たちの考えていた新しいかたちの女性外来が思いがけず早く実現しそうなことと、漠然とした将来の方向を明確に示してくださった天野先生に出会えたことでワクワクしながら仕事をしていた当時を思い出します。それから開設までは、診療組織及び運営方法の立案、診察室の場所の選定・設計・改装、天野先生や女性外来では先輩の鹿児島大学の嘉川亜希子先生による性差医療や女性外来に関する教育講演会開催、女性外来担当者のための院内セミナーの立ち上げなど怒涛のように過ぎていった半年でした。

 

開設後の診療体制は、循環器内科、消化器内科、婦人科、心療内科、乳腺・肛門外科、整形外科、皮膚科から女性医師が出務し、加えて、看護師、健康運動指導士、保健学科教員、管理栄養士等の女性コメディカル・スタッフが加わり、それぞれの専門領域から診療をサポートしてもらえることになりました。完全予約制で診療時間を十分確保し、担当者は傾聴と共感を心がけるという共通認識をもち、診察室も診療体制も整いスタートすることができました。

 

診察室は、沖田院長の裁量で、完全に他科と分離される場所を改装し、待合室、2つの診察室と婦人科の内診台と超音波検査装置も設置した附属室を備え、やさしい色調の内装とプライバシーが守られる環境に、「中に入るとホッとする」と患者さんの評判は上々でした。数年後には健康相談や実技指導、医療用鬘やブラジャーの専門業者による相談などのできる女性専用の相談室も確保することができました。

 

当初は試行錯誤の連続でしたが、「女性のためのヘルス・プロモーション・センター」メンバーの協力も得て、月1回の診療会議で顔を合わせ、運営に関する話し合い、症例検討、院内講師による勉強会などを行い、1年が過ぎる頃には診療体制も落ち着いてきました。専門の資格をもつコメディカル・スタッフが、それぞれ運動指導や排尿障害の指導を行い、ニューズ・レターの発行にも力を注いでいました。一番の問題は、いかに地域での女性外来の認知度を上げ、受診者を確保するかということでした。開設直後は新聞やラジオに取り上げられ、予約が殺到し、1か月先まで受診待ちというような状態が続きましたが、半年たつ頃から1か月の新患数が20-30人、延べ受診者数は100~200人に留まり、何かマスコミに取り上げられた後には受診が増加するという具合に、診療枠が少ないとはいえ、思ったほどの受診者を確保できませんでした。受け入れ側としても、担当医師の交代も多く、患者さんの期待に沿えないことも時にありました。そういう中で、配偶者の海外留学のために休職していた婦人科医師が、非常勤医師ながら、週3日担当してくれるという話が持ち上がり、女性外来開設3年目から常勤に近い形で担当をしてくれました。産婦人科の基礎が出来上がり、かつ、将来は女性の総合診療を目指しているという、女性外来には打ってつけの医師で、この医師の在職期間は1か月間の受診者数は150人~250人と100人近く増えました。女性外来の安定した運営にはアンカーとなれる医師が必須だと改めて痛感し、病院の運営者に何度か要望を出していましたが、実現はかなわず、4年間在籍してくれた先述の婦人科医師を引き留めることはできませんでした。

 

看護師は開設3年目から閉科に至る14年間、1人の専任看護師が在職し、多科から出務する医師やコメディカル・スタッフ及び患者さんのかなめとして、最後まで女性外来を支えてもらいました。

 

保健学科教員と「女性外来主任」の兼務で、女性外来開設以後10年間の私は多忙を極めていましたが、女性外来の同僚や「女性のためのヘルス・プロモーション・センター」のメンバーなど多くの仲間と新しい試みに挑戦することは楽しく、学外にも多くの友人ができ、国際シンポジウムの開催や「性差医学・医療学会」の学術集会の引き受けなど、何とかやり遂げることができました。

 

残る仕事は、女性外来の専任ポストを獲得して、後任の医師に任せることでしたが、残念ながら、これは実現することなく閉科の時を迎えました。

 

閉科が決まった時、まだ数十人の患者さんが予約に入っていましたが、急な転院のお願いで驚かせ、急いで転院先を決めることになり、申し訳なく、心苦しい日が続きました。20名程度のどうしても適当な受け入れ先がない人がおられ悩んでいたのですが、古くから地元にある総合病院がちょうど3月に大学病院の近くに新築移転したところでしたのでで、院長にお願いして週半日、女性外来の枠を提供してもらい、4月からの診療の継続が可能となったのは、本当に幸運でした。

 

大学での最終診療が終わった日、これまで女性外来を担当してくれた看護師さんたちが院内外から訪ねてきてくれ、待合室でしばらく思い出話をし、別れを惜しみました。

 

 

 

【なぜ女性外来を継続できなかったのか】

 

女性外来が生き残るためには、受診者数の確保、病院経営陣の理解、スキルをもった女性医師の配置などが欠かせません。傾聴を基本に置く女性外来の診療コンセプトからは、診療患者数をそれほど増やすことはできませんが、経営の観点からある程度の確保が必要です。それには、女性外来の意義を理解し、診療環境と安定したポストを用意し、経営戦略の視点からもバックアップしてくれる管理運営陣の存在が重要です。また、診療する女性医師には、ホルモンや社会環境の影響を受けやすい女性患者を診療するスキルをもち、総合的に女性を診療できることが求められます。そのための研修プログラムがあれば、今後、担当できる医師もふえてくると思います。  

 

山口大学の女性外来が存続できなかった理由を考えてみますと、一番の要因は、女性外来の意義や活動内容を病院の首脳陣に十分理解してもらうことができず、そのために正規のポストを得ることができなかったということではないかと考えています。近年、国立大学では、国の方針で教員数を減らす方向にあり、新規のポストを作ることは難しいということは確かです。しかし、本当に必要であれば、部局の裁量経費を使うなど、不可能ではないことも事実です。当院の場合、主任であった私も他の担当者も、病院の運営に関する意思決定の場に出る資格がありませんでした。女性診療外来については月ごとの受診者数も総合診療部の中に含まれ、活動内容を説明する機会も人もありませんでした。そのことに早く気付いて、アピールの方法を考えるべきだったと今になって思うこともあります。存続できなかったのは単一の理由ではないと思っていますが、“だめと思ってもできることは全部やってみる”という私の流儀を忘れていたのは確かで、女性外来を頼りにしておられた患者さんに一番申し訳なかったと思っています。

 

【これから】

 

今は10月も下旬、9月の台風の潮風で庭の木の葉はみな茶色に散り急ぎ、今年は紅葉は無理だなと思う中、コロナや自然災害で苦しむ私たちにご褒美のような澄んだ秋空に白い雲が浮かび、庭ではツワブキが黄色い花を元気に咲かせています。この原稿を書きながら、女性外来でともに過ごした仲間や出会った患者さんたちを思い出しました。当時とは規模は小さくなりましたが、山口市と宇部市の病院で、女性外来を必要とする患者さんがおられる限り、診療を続けていきたいと思っています。

 

 

※編集より:画像のピンクのバラの花ことばは「感謝」です。

松田先生のご尽力に、心からのご尊敬と、感謝の気持ちを捧げさせて頂きました。

 

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