回生病院 女性漢方外来部長 野萱 純子先生の投稿です。
野口晴哉という整体治療家の著書を読まれた方も多いと思います。
「風邪の効用」など文庫にもなっていますから手軽に読むことができるのですが、私は時に「治療の書」を読み返します。一節をご紹介します。
「多くの人毎日死につつあることを忘れ、人の死ぬものなること忘れ 死に近づきて憶い出して慌てる也。之も又楽しきもの也。
その機になって憶い出し慌てるほど気楽に生きてゐること又活き活きしたるものあり、されど気楽に最後の瞬間迄死ぬこと忘れて活き活き生くること望ましきこと也。
死を告げて生きてゐるうちから 何回も死なしめ死ぬ前に殺して息だけさせている人もあれど 之間違ひ也。
用心のため殺すことしばしばあり されど生くること用心より大切也。後に残る人の便利より生を失わんとしてゐる人のいのち 大切にす可き也。」
「生きてゐることそのものが生きてゐる意義也。
他に生きてゐる理由あるに非ず、たゞ生くる理由を人造ってゐる也。
如何に巧みに造るも人の造りしもの也。
壊るゝの日ある也 又成るの日ある也 之又面白き遊び也。
雨降らば傘をさし、雪ふらば衣まとひ、地球にのって宇宙を闊歩してゐるも又面白きこと也。光とともに息し、陽とともに生き、月を眺め雲を見、花を楽しみ草を悲しみ、海に笑ひ山に考へ 人の生きてゐるは楽しき也。
その楽しみ乍ら生きてゐれば、自づから休み与へられる也。死ぬこと生くること 欣びて生き又死ぬ也。養生といふこと 無駄なことにあくせくしないでゐること也。」
(「治療の書」 野口晴哉 著)
緩和や在宅に関わっていると、人生の最終段階に伴走することが多くなります。
そういう時、病状の理解ができているとか、死の受容ができているとかいないとかいう言葉が出てくると、何とも言えない居心地の悪さを感じてきました。
本当は緩和医療が嫌いだなと内心思いながら、なぜとはっきりわからなかったのです。
今になって、私自身にそんな行い澄ました人生の終わり方ができそうにないからだと気がつきました。
自分で食事ができなくなったら栄養補助は受けないでおこうと、ある程度の計画は持っているものの、ACPや人生会議などという形にまとめたりしたいとは思えないのです。
ACPはそんなものじゃないよという声も聞こえてきそうですが、まだ生まれようとしていない言葉を無理やりに明るみに出してしまうことのように思えます。
使い古した言葉に頼って転ばぬ先に用心しながら、あらかじめ何度も死ぬのではなく、生き生きと大事な時間を過ごしてゆけないだろうかと思っています。
言葉にできないものはそのままに、決められないことはそのままに、都合の良いプランを立てようとせずに、邪魔にならないで、状態を見定めながら、出来ることを慎重に準備している、そんな宮沢賢治の詩のような人になれたらいい。
これこそ都合の良い妄想かもしれません。
一年ほど前に庭に面してサンルームができ、空を眺めることが多くなりました。
晴れた日も雨の日も面白いのですが、満月を見てふと私の背中側に太陽があるんだなと感じたり、一晩でめぐる星座が北を中心にしていることに感心したりしていると、地球にのって闊歩しているというのも言葉遊びでは無いという気分になります。
毎日くるくる回転し、一年でぐるっと回ってくる、何と忙しく面白いことでしょう。
全てみな、宇宙の引き合う力の中にあるんだなと、知っていたはずの事が新鮮に思えるこの頃です。
社会医療法人財団大樹会総合病院回生病院 女性漢方外来部長
https://www.kaisei.or.jp/patient/outpatient/department/lady’s/
野萱 純子
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